徒然なるままに、書く
最近、自分の中で急速に変わってきていることが、時間の使い方と、自分への声掛けのふたつ。
いつも何かに焦っていて、
いつも『今、ここ』ではないどこかに心が向いていて、
目の前のこと、目の前の人に集中できないことばかりだったけど。
具体的なきっかけはあるような、ないような。
でも、その都度その都度の小さな気づきが大きな学びとなって、
遠くの空を見ていた視線を、自分の今歩いている足元や、周りにある景色、隣にいる人に向けられてきた気がする。
どんなに遠くの空に行きたいと思ったところで、でも、そこに行くにはこの一歩を積み重ねるしかないのであって、
そして、この一歩が、今、生きている人生そのものなのだから、
この歩いている瞬間を味わうことが全てなんだと思う。
そう思うと、地に足つかず、あくせく空回りして過ぎていた時間を、
とても心穏やかに大事に使うことができるようになって、
まだ決して使い方がうまくなったとはとても思わないけど、
なんとなく心地の良い過ごし方ができるようになってきたことが嬉しい。
それと同時に、
自分への声掛けは確実に変わってきたと思う。
機嫌が悪い時、しんどいとき、うれしいとき、楽しい時、素直になれる時もそうでないときも、そのどれもを否定することが少なくなってきた。
今思えば、いつも何かに悩んでいた。
自分の将来のこと、
家族のこと、
体や食に関すること、
仕事に関すること、
自分をなかなか受け入れられないこと。
そのどれもは、自分を否定して認められないことばっかりで、
でも、そうやって、否定したり感情を外に向けることで、自分をどうにか守って保ってきたんだとも思う。
ベクトルを、もっと自分の内なるものに向けたいという意識が先だったか、
どんな瞬間をもとにかく認めて受け入れようとする自分とのやりとりが先だったか、
たぶんそのどちらもの結果だろう。
ある種、今自分がいるところ、今存在している状況、このありのままの自分に、いい意味で観念したとも言えるのかもしれない。
自分が自分を責めて、誰が守ってくれるんだろう。
まじめにまじめに生きてきたけれど、
自分も人も環境も時代も事もモノも、
全てが刻一刻と移りゆく中で、
何か、どこか、誰かにとらわれて生きていくことほど勿体無いことはない。
自分がこう感じるから相手もこうだろう、
こう思うはずだから、ああしておこう、
と行動した結果、
実際に相手が感じたことや思ったことは全く違っていたりして、
そんなことを繰り返して、
やっぱり人の心は人のものであって、
捉え方も感じ方もその人の自由であって、
だとしたら、そこに自分が縛られることも、相手を縛ることもやめようと思い知る。
生まれてきてからこのかたずっと一緒にいる自分のことは、自分が一番良く知っているはずで、だからこそ、なおさら大切に感じてあげたい。
自分のことは自分にしか分からない。
相手のことも相手にしか分からない。
時間の使い方と、自分への声かけ。
違う点と点のようで、実はリンクし合うものだと思う。
人生という時間、今日という時間、『私』という時間。
そのどれもを意識すると、自然と繋がる自分への対応や扱い方。
時間はある。たくさんある。ないけどある。
時間は作るものだというのは、本当だと思う。
やりたいことはたくさんあるから、着実にひとつづつ、しっかり『自分』を感じながら進む。
思えば、いつも同じようなことを書いているような気がする。
だけど、オセロの駒を一つずつ返して自分の場所を広げていくみたいに、
今は、書くことで、整理し、アップデートし、深め、自分の心に根付かせている。
今はちびちび責めているオセロ、
いつか端を取って一気に加速したい。