オーダー式お取り寄せのシステム
『またまた掴んでる!』と思った。気付いた。
また不安を掴んでるー!
どんだけ好きなのかー!
あきれる。笑える。
【お取り寄せ】してる。
不安や、心配や、思い込みを。
わざわざ取り寄せて、
わざわざその取り寄せ品に浸って、
くよくよしたり、嘆いている。
滑稽だ!
そもそも取り寄せなければ
そもそもその未来や過去を今に引っ張ってこなければ
いいだけの話だ。
ネットショッピングと同じ。
○○が欲しいと思って、
選んで、
オーダーして、
手に届く。
自分がオーダーしたんだから、
手に届く。
そりゃそうだ。
商品はネット上に溢れるほどある中で、
どれを選ぶかはわたしの選択である。
合っていても、間違っていても、どんな内容でも、
選んだものが、手に届く。
選ぶのは、わたし。
ならば、ごきげん☻を選んでいたい。
ごきげんをオーダーしていたい。
ごきげんをオーダーしようと思った時点で、検索ワードは「ごきげん」
出てくるページは「ごきげん」
考えるのは、どんなタイプの「ごきげん」にするか
届く商品は、間違いなく「ごきげん」
ああ、
なんてかんたんなこと。
なんてシンプルなこと
なんて面白いこと
なんと早いこと
なんて美しいこと
今この瞬間、わたしは何をオーダーしようか。
あ、
また掴んでる!
と思った
不安、後悔、反省、心配・・・
そのひとつひとつ理由を挙げてみる
挙げた理由の主語は、
ぜんぶ、自分以外のこと、もの、人、だった。
じゃあわたしはどうなの?
と考えたとき、
そこに『わたし』が主語の理由はなかった。
勝手に、
不安、どう思われるか、心配、もやもやを
取り込んで、作り上げて、掴んでた。
掴んでいたことに、気が付けた。
事実は、事実がそこにあるだけ。
掴んでいたことを味わったなら、
泡になって、消えていく。
掴みたくても、もう掴めない。
掴みたくないと思うほど、
より強く掴むことになるんだなあ。
ありがとう。
もう、大丈夫。
恥を捨てて、書く
いかん、このままでは後退していく一方だ!
と思った。
正直、仕事が嫌でたまらなかった
なんで行かないといけないのか
そう思うい続ける自分にも、仕事にも、相手にも、いらいら
その結果、そんな自分の行動を顧みて、誤った金曜日
でも、ふと思う
私はなんで謝るような仕事の仕方をしているのか
前進したくて、成長したくて、生きているはずなのに
掴んでいる感情は、
仕事いやだ いきたくない
なんでこんなことしているんだろう
またこんだけ溜まってしまった
いやいや私に聞かないでよ
そんなこと知らないよ~
したいことはたくさんあるのに、こんなことしている場合じゃないのに
仕事しているからできないんだ
本当はここでこんなことしているような人間じゃないぞ(ある意味すごい自信だね)
もっと高みを目指しているんだ
いつまでここにいるんだろう
なんて無能なんだ 恥ずかしいな
私がいることでみんなに迷惑かけているんじゃないか
もっと優秀な人はたくさんいるだろうに
ああ出るわ出るわ、ダークサイド
ダークサイドにいると気づいていながらも
その気持ちを一瞬一瞬掴み続けている限り、
つまりはそこに居続けるということだ。
* * * * * * * *
金曜日の夕方、
そんなぱんぱんな感情のまま外に出てみると、
やさしい風が吹いていて、
かわいい花が咲いていて、
車は何びゅんびゅん走っていて、
人は笑いながらあるいていて、
あっれー、
あの小さな空間の、『わたし』という小さな頭の中で、
わざわざイライラの種をつかみ続けていることが
すごくこっけいに思えて、
ふっと力が抜けた。
掴んでいるときは、必死
自分を守るため、そうやって正当化するために、必死。
* * * * * * * *
毎日、時間に追われて、前しか見ずに自転車飛ばしている道も、
じっくりゆっくり歩いてみると、
そこら中に花が咲いていて、
いかにミクロしか見ていないかを痛感した土曜日。
こんなにも <ある> のに、
わざわざ小さなポイントばっかり拾い続けていたなって。
あるじゃーん!と力が抜けた土曜日。
* * * * * * * *
自分の思考は自分のものであって、
自分で決めることができる。
感情も、考え方も、自分で選択できるし、解釈できるし。
じゃあ、なんで掴み続けているのか?
そこを理由にしていたいだけ。
仕事があるから
仕事がしんどいから
仕事で疲れているから
仕事で時間がないから
そうすると、
自分は被害者になれる
自分は被害者でいれる。
被害者の沼にいると、楽だもんな。
世界には、
沼もあるけど、
花畑もあるし、山も川も畑も田んぼもあって、
動物も虫もいて、
広い広い空が広がっているのに。
沼にいると、沼の泥しか見えてこない。
時間に追われていると、時間をこなすことしか見えてこない。
俯瞰して、広い目で見て、
行きたいところも、
感じたいことも、
時間の使い方も、
自分で選べばいいだけなのに。
ときどきは沼にはまって泥だらけもいいけどさっ。
* * * * * * * *
勝手に力んで掴んで必死になっていたけど、
手を放してみると、
あっれー、なんだったんだろうと思う。
被害者でいたかったんだ。
まあそんな自分もかわいい、良しとしよう。
だけど
いや、だから
ずっともやもやしていたんだ。
かんたん、かんたん、手を放すだけ。
金曜日の夕方
土曜日の朝の散歩
日曜日の映画と本と友との会話
コロナでぽっかり空いた週末の予定たち
おかげで、マクロの世界を見つめる時間ができて
きっと、全て良し。
エネルギーは、ごきげんでいることに向けていきたい。
32歳
誕生日は、
産んでくれたくれた母に感謝する日であり、
これまでの自分を振り返る日であり、
これからの日々に思いを巡らせる日であり、
誕生日を口実にたくさんの人にありがとうが伝えられる日である。
3ヶ月前には予想していなかったことが広がる現状は、当たり前の日々が当たり前でないことを教えてくれている。
今日という日に感謝して、
ありがとうを直接伝えられることに感謝して、
その感謝を、
これからのわたしはどう表現していこうかなと考える。
これまで積み上げてきた人生。
これから積み重ねていく人生。
わたしはわたしとして、
なにがしたいかな。
なにができるかな。
人生、もしも96歳まで生きるとして、
その年月を24時間に換算したならば、
32歳は朝8時らしい。
まだまだこれから!だなぁ。
わたしの人生、いよいよ第二弾の始まり。
目指したい場所はたくさんあるけれど、
まずは、何より、
心穏やかに、自分の内をより深く見つめる年にしたい。
春
心は穏やかに、
冷静に、
しっかり前をみて、
生きたい 行きたい ‘世界’ を見つめる。
確実に近付いてきている春に、心ときめかせながら。
重要感、肯定感
「みんなばかじゃない。みんな、ちゃんとわかるのよ。だから、ひとつひとつの言葉や行動を大切したいっていつも心に留めている。」
学生のときに行った旅行先の現地ガイドさんが、ふとしたときに言った言葉。
そのときの私にずしんと響き、それ以来ずっと心に残る。
ときどき取り出しては、
その言葉の意味を、眺めたり味わったり自分に言い聞かせたりしていた言葉。
ガイドさんの意図はまた違うところにあったと記憶しているが、
このフレーズだけがやたらと響いた理由は、まぎれもなく、そうできていない自分に言われているようだと感じたからだろう。
* * * * * * * * * *
自信がない自分を応援してあげたくて、
いつからか、【自己肯定感】とやらを意識するようになり。
そのおかげで、少しずつ良くはなってきた。
だけど、今思う。
自分を肯定しようとするばかりに、
結果、“周り”は置き去りにして、
ただ、何が何でも“自分を正当化”しようとしていただけではないだろうか。
【自己肯定感】を持ち、自分を認めて大切にしようとすることを推進しつつも、
それと同じくらい、
(言葉を選ばずに言うなれば)
つまりそれって『周りをおざなりにしてもいいってこと?』
という、なんとなくつじつま合わないもやもや感があった。
自分を認めること、優先すること
と、
周りとの境界線、バランス
をどこに取ればいいのか分からなかった。
なんて単純で器量の小さな考え方。
いいわけない。
【肯定感】の意味のとんでもない勘違い。
【肯定感】という言葉に謝りたくなる気持ち。
* * * * * * * * * *
気づいたのは、【自己重要感】。
私は、きっと、この世界にとって、とてつもなく重要な存在であるということ。
それを思い出すこと。
それと同時に、目の前の人も、同じくらい重要な存在であると尊重すること。
まずゆるぎない【重要感】があって、
その先の延長上に【肯定感】があるのかなって。
そう考えると、ようやく二点が繋がる気がする。
私の場合、
【自己肯定感】を優先しようとすると、
自分を守りたいばかりに、
相手に軸を傾けることで、肯定感が“減ってしまう”、あるいは“取られてしまう”気になっていたんだなぁ。
(これは、私の末っ子気質の影響も大いにあるかな。)
自分にも、感情があり、
相手にも感情がある。
自分にも家族がいて、
相手にも家族がいる。
自分にも夢があって、
相手にも夢がある。
自分にも日々波があって、
相手にもきっと波はある。
相手には相手の“世界”が広がっていて、
みんなそれぞれの世界の中を一生懸命に生きている。
私も大切な存在で、
あなたも大切な存在だ。
そう尊重することから始めること。
みんなばかじゃない。
私が相手をどう捉えているかは、相手に伝わる。
そんなことを思い浮かべるだけで
どうしようもなく愛しく思える不思議。
見える世界が変わってくる。
その土台に基づいて、その後どういう選択をするかはその都度考えればいい。
逆に言えば、そこさえぶれなければ、自分にも相手にも心地のいいやりとりができるんじゃないかな。
肯定=優先していい、ではない。
自分を守ること=相手をつついたり攻撃していい、ではない。
自己肯定感という言葉に助けられてここまで来れたけど、今ここでもうひとつの見方を投入するとき。
* * * * * * * * * *
燻り続けていたガイドさんの言葉と、本で学んだことが結びついて、
ずっと引っかかっていたものが腑に落ちた瞬間。
分かっていたつもりでも、実際にはなかなかできていなかった私。
恥ずかしながら、未熟な私はつい忘れがち。
いつも頭に置いて思い出せるように、
自分にリマインドするための、記録。
* * * * * * * * * *
愛は、分けても与えても傾けても、減らないんだ!
記録として
一難去って、また一難
突き放すべきか、寄り添うべきか
拒むべきか、受け入れるべきか
怒るべきか、笑うべきか
どうすべきか、まったく分からぬ
毎度繰り返されることに
もはや、考えることにも疲れ、
客観視しすぎて無感情な私は裏切り者か。
でも、その能面のような大人の顔した私の中に、小さくとも確実に存在する幼く純粋な私は、何を叫んでいるか。
その叫びすら、もう嵐にかき消されているような。
ああ。
こんなことをわざわざブログの記事として書くのは好きではないが、
これもあえて自分の心の記録として。
どれだけ試すのか。
どれだけ試されるのか。
しかし、入り込みすぎることなく、
どこか他人事として冷静に見ているのは、
成長の証か、
いや、自分の防衛か。
答えは、ああ、どこに。