心の杭
杭のように、心にずっと引っかかっているものがあった。
それは、本当は自由に飛んでいきたいわたしの心を、つなぎとめて飛んでいけないようにさせていたように思う。
中村天風さんのいう【絶対積極】を意識し始めたら、
いかにわたしは周りに依存したり、
気付かないうちに自分以外の人、もの、ことを理由(言い訳)にしているかに気が付いた。
でも、そうやって誰かのせいにしていることにも、
それを打破するわけでもなくそこに依存したままの自分にも、
だって仕方ないよね、だってつらいんだもの、と甘やかせていた。
いつもどこか他力本願で自分の人生に積極的になれないことにうすうす気付いてはいたけど、
直視したくないような、
直視したら、自分の弱さをあらわにせざるを得ない怖さがあるような、
そんな気がしていた。
心をトイレットペーパーに例えるならば。
トイレットペーパーの芯の部分に、わたしの一番中心にあるピュアな部分があるとするならば。
ペーパーをどんどんはがしていって、いくら中心に近づいていても、
芯の中に鎮座している杭にたどり着くことはできなくて。
杭があることには気づいているし、分かっているし、
その杭がゆえに芯の外に出れていないことも分かっているけど、
その杭のせいにしておけば、
自分がこれ以上傷つかなくてすむと思って、見て見ぬふりをしていた。
まるで虚の拠り所のように。
でも、
同時に、
その芯の中にいることに、そろそろ閉塞感も感じていた。
出てみたいな。でも自信ないな。
みたいなやりとりをずっとしてた。
芯の中から外を眺めながら、
周りや相手をどうにかしたいと思っていつも焦っていたけど、
どうにかしたかったのは自分の心だったんだなと思う。
芯に閉じこもらざるを得ないいきさつがあったにしろ、
そんな風にいつまでも芯の中に閉じ込めさせていたのもまた、自分だったんだと思う。
芯の中で、一人勝手に絡ませていた糸は、
ものごとをどこまでも絡ませて複雑化させ、
そのくせ自分で絡ませた糸を自分でほどけずに苦しんでいた。
だけど、絡んだ糸を誰かに見せることも、絡んでいると伝えることも、その糸が苦しいんだとも誰にも言えなかった。
だけど、そろそろほどいていいよねと思えた。
複雑すぎてほどけない、ほどいてはならぬと思っていたのは自分だけただったのかもしれない。
いろんな過去があって
今は杭に引き留められていたり、複雑に絡み合った糸に困り果てているわたしがいるけど、
そんな過去があって今に至るわけで。
そんな過去があったからこそ今のわたしがいるわけで。
そしてこれから先の選択肢は、
今、このわたしがつかんでいるわけで。
【○○のために私は○○だ。】
ではなく、
【○○だけど、私は○○だ。】
【どんなことがあっても、私はしあわせになるのだ。】
と、変えてみてもいいのかもしれない。
もっと主体的に自分の人生を生きてもいいのかもしれない。
原因に目を向けていても何も生まれない。
だけど、原因に目を向けざるを得なかった日々も、今のわたしをわたしたらしめている部分であり全体である。
自分に対する怖さも、
相手を傷つけてしまうんじゃないかというこわさもあったけど、
芯の外の世界は、
自分が思い描いている世界とはまったく違う世界かもしれない。
思っている以上に、優しい世界かもしれない。
自由に軽やかに生きてみてもいいのかもしれない。
そう変換していく時期が来ているのかもしれない。
今年のテーマは、解放。
自分にも相手にも社会にも地球にも
もっと柔らかく優しく在れるように。
軽やかに過ごせるように。
その、自分の解放への第一歩が、
小さく、踏み出せた気がする。