リトリート in 静岡
9 / 22 〜 24
富士山の麓にある富士山静養園にて、かわしまようこさんのこころとからだのお手当てリトリートに参加。
その数日前に徳島で砂浴をし、その後和歌山の温泉にてさらなる毒出し。砂浴の効果か、もう身体中が痒くなり、夜中にかきむしって眠れないほど。でも、それだけ毒出しできているという嬉しいことでもある。
そんな中でのリトリート。
富士山静養園は、自然豊かな広大な敷地の中にあり、その空気感がとても素敵な場所。富士山の麓、レイライン上にあり、いるだけで潜在意識の夢の中にいるような、何ともゆるんだ感覚になる。そんな場所で、文字通り身も心もさらなる解放へ。
リトリート中、何度も勝手に涙が出てきて止まらないときがあって。
2日目の夕方には、どうにもこうにも止まらなくなり声をあげて号泣。
ふだん涙するときには、その涙の理由が分かって泣くことが多い気がするが、今回は自分でも訳が分からないほど涙が出て出てしょうがない。
でも、ひとしきり泣いたあと、気づいたことがひとつ。
この涙は、身体に染み込み、刻み込まれていた今までのあらゆることが、物理的な涙になって流れたんだなぁと。
ゆるんだ身体の隙間から、奥底に溜まり溜まっていたものが流れ出たような感覚。
ここ数年は、『心と身体の声を聞く』というのをテーマにしてきたつもりでいたけど、実際、その声にどれだけ心から耳を傾けられていたのだろうか。
もしかしたら、形や格好だけだったのかもしれない。
でも、形や格好の上っ面だけだったとしても、『心と身体の声を聞くんだ』と決めたから、少なからず前進してきたし、だからこそようやくここまでこれたというのも事実。
そして、今、この身体的・精神的デトックスをして、改めて自分と静かに向き合うタイミングにこれたからこそ奥深いところから溢れ出たもの。
『ようやく出してあげられた』とも言えるのかもしれない。
化けの皮をはぐように、一枚一枚はがしてきた中でも、まだまだ芯の部分は残っていたんだな。
たくさんたくさん、がんばってくれてありがとう。気付いてあげられなくてごめんね。本当に色んなことがあったね。
わたしはわたしで、どんなわたしもわたし。
これからは、どんなわたしでもずっと一緒にいるね。
と、ひとつひとつ思い出しながら話をして、そんな自分を抱きしめた。
そう気付いたとき、出てきた言葉は、心からの『ありがとう。ごめんね。愛してるよ。』
そう言えたとき、身体がとても喜んで、さらなる静けさと穏やかさに満たされ、優しい幸せがじわじわ広がった感じがした。
今まで、一生懸命に頭と心と身体を一致させようとしてきたけれど、ふっと力が抜けて、そうがんばらなくてもそれぞれの円がカチッとはまって奥深いところに着地する感覚。
一度はまったこのリンクは、もう離れることはないだろうし、この『自分でいられることを自分がしっかり認められている安心感』というのは、相当強力らしい。
この気付きは、この夏の (と言うよりこの数年の) 気付きの集大成とも言えるかもしれない。
全てが繋がってここにたどり着いたこと。
その全てに感謝。
ただただ、穏やかに満たされた感覚が身体中を巡ってる。
また、一歩、大きく前進。