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わたしの毎日

あらためて

ブログからすっかり遠ざかって日が経ち、
気付けば、外にはもう秋の香り。

この半年、
ヨガのティーチャートレーニングの終了
フラワーエッセンスの学び直し
ひとり暮らしに踏み切ってみたり
自分のセンシティブな部分を見つめざるを得なかったり
髪を15年ぶりに染めてみたり・・・
いろんな変遷を経て、
今日ここ、心穏やかに在る私。

ふと、
久しぶりにこのブログを読み返してみて、
ここにはわたしの内側にあるピュアな部分や今のわたしに至る軌跡のピースが散りばめられている。宝物だなぁと思えた。

記事を書いたそのときの一つひとつの感情を今でも鮮明に覚えていて、
一生懸命だった自分を愛しくて愛しくてぎゅーっと抱きしめたくなった。

意識していないと日々流れていく時間の中で
こうして形に表現することは、
その瞬間の自分の足跡を残す大切なツール。
歩いてきた道を振り返り、また前に進む勇気にもできる。

少しづつ、再開していこう。
ゆるりと、でも着実に進んでいきたいから。

インスタもUPしていけたらいいな。
こちらも、ゆるゆると。
(https://www.instagram.com/aaaaaki_31___)

 

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正しさ暴力にならないように気をつけたい。

 

『自分』を貫くことが正しいわけじゃないし、

かといって、他に寄り添うことが正しいわけじゃない。

 

そもそも正しさなんてないんだろうし。

 

もちろん、自分の心地よさを第一に考えたいことに変わりはないけど。

 

だけど、それを押し付けたり振りかざしたりするのではなく、個々の心地よさの集合が、さらなる心地よさを作るものであるためにはどうしたらいいのか。

 

正解を見つけるんじゃなく、

どの案配がちょうど良いのかを探していくこと。

人生の醍醐味なのな。


 

 

これからの道

 

このまま続けるんだろうか。

 

いきたい世界があるのに、

いったいいつまで言い訳しながら続けるんだろうか。

 

答えはないけど、

答えを見つけるのは自分であって、

それが正解かどうかを決めるのも自分であって。

 

だけど、やっぱりこわかったり自信がなかったりするんだな。

 

だけどだけど、

満タンの自信を持てる日なんてきっといつまでもこないわけで。

 

大事なのは、覚悟と責任。

 

突破したい気持ちがもくもくとわいてきている最近の内側を感じながら、

ほんとうにいきたい世界はどこかを考えている。

 

心の杭

 

杭のように、心にずっと引っかかっているものがあった。

それは、本当は自由に飛んでいきたいわたしの心を、つなぎとめて飛んでいけないようにさせていたように思う。

 

中村天風さんのいう【絶対積極】を意識し始めたら、

いかにわたしは周りに依存したり、

気付かないうちに自分以外の人、もの、ことを理由(言い訳)にしているかに気が付いた。

でも、そうやって誰かのせいにしていることにも、

それを打破するわけでもなくそこに依存したままの自分にも、

だって仕方ないよね、だってつらいんだもの、と甘やかせていた。

 

いつもどこか他力本願で自分の人生に積極的になれないことにうすうす気付いてはいたけど、

直視したくないような、

直視したら、自分の弱さをあらわにせざるを得ない怖さがあるような、

そんな気がしていた。

 

心をトイレットペーパーに例えるならば。

トイレットペーパーの芯の部分に、わたしの一番中心にあるピュアな部分があるとするならば。

ペーパーをどんどんはがしていって、いくら中心に近づいていても、

芯の中に鎮座している杭にたどり着くことはできなくて。

 

杭があることには気づいているし、分かっているし、

その杭がゆえに芯の外に出れていないことも分かっているけど、

その杭のせいにしておけば、

自分がこれ以上傷つかなくてすむと思って、見て見ぬふりをしていた。

まるで虚の拠り所のように。

 

でも、

同時に、

その芯の中にいることに、そろそろ閉塞感も感じていた。

 

出てみたいな。でも自信ないな。

みたいなやりとりをずっとしてた。

 

芯の中から外を眺めながら、

周りや相手をどうにかしたいと思っていつも焦っていたけど、

どうにかしたかったのは自分の心だったんだなと思う。

 

芯に閉じこもらざるを得ないいきさつがあったにしろ、

そんな風にいつまでも芯の中に閉じ込めさせていたのもまた、自分だったんだと思う。

 

芯の中で、一人勝手に絡ませていた糸は、

ものごとをどこまでも絡ませて複雑化させ、

そのくせ自分で絡ませた糸を自分でほどけずに苦しんでいた。

だけど、絡んだ糸を誰かに見せることも、絡んでいると伝えることも、その糸が苦しいんだとも誰にも言えなかった。

 

だけど、そろそろほどいていいよねと思えた。

 

複雑すぎてほどけない、ほどいてはならぬと思っていたのは自分だけただったのかもしれない。

 

いろんな過去があって

今は杭に引き留められていたり、複雑に絡み合った糸に困り果てているわたしがいるけど、

そんな過去があって今に至るわけで。

そんな過去があったからこそ今のわたしがいるわけで。

 

そしてこれから先の選択肢は、

今、このわたしがつかんでいるわけで。

 

【○○のために私は○○だ。】

ではなく、

【○○だけど、私は○○だ。】

【どんなことがあっても、私はしあわせになるのだ。】

と、変えてみてもいいのかもしれない。

 

もっと主体的に自分の人生を生きてもいいのかもしれない。

 

原因に目を向けていても何も生まれない。

だけど、原因に目を向けざるを得なかった日々も、今のわたしをわたしたらしめている部分であり全体である。

 

自分に対する怖さも、

相手を傷つけてしまうんじゃないかというこわさもあったけど、

芯の外の世界は、

自分が思い描いている世界とはまったく違う世界かもしれない。

思っている以上に、優しい世界かもしれない。

 

自由に軽やかに生きてみてもいいのかもしれない。

 

そう変換していく時期が来ているのかもしれない。

 

今年のテーマは、解放。

自分にも相手にも社会にも地球にも

もっと柔らかく優しく在れるように。

軽やかに過ごせるように。

 

その、自分の解放への第一歩が、

小さく、踏み出せた気がする。

 

べき論世界からの脱出

 

こうあらねばならぬ

こうあるべきだ

という【べき論】にはまりがちな私。

 

軽やかに過ごしたい気持ちはあっても、

気付けば【べき論】に心を埋め尽くされて、

自分も相手も締め付けてしまう。

 

そんなとき、思い出すようにしたい。

 

わたしには、選択の自由がある。

みんなにも、選択の自由がある。

 

凝り固まった選択肢の中からこうあるべきと決めつけるのではなく、

こうあってもいいよね。でもそうじゃなくてもいいかもね。と。

 

そもそも選択肢は無限にあるということすら忘れかけているかもしれない。

まずはそこを思い出すことから始めようと思う。

 

そうやって選択した結果が、

結局同じものだったとしても、

意味合いや心持ちはまったく別物だろう。

 

【私が選択して、こうありたいと思ったんだ。】

と、選ぶのだから。

 

こだわりや枠、価値観から

自分も相手も社会も地球も解放できるように。

優しくやわらかく在れるように。

振り幅は大きく、軽やかであるように。

 

いつでも思い出せるように、

心の一番上に置いておきたい。

 

 

違いを認めるということは、自分の枠や間口を広げることであり、同時に、自分の軸を再確認できるチャンスだと思う。

 

みんな違う。

 

それぞれに異なる感じ方、考え方、捉え方があって、

そういう多様性があるから成り立つ世の中なんだとも思う。

 

その違いに

苦しんだり迷ったり、惑わされることもしばしばだけど。

 

でも、

その違いのおかげで

学びや気づきをもらったり、支えられていることも、また事実。

 

すり合わせ、歩み寄り、

ときには、

自他分離、切り離し。

 

良いあんばいを見つける過程を、

今日も明日も愉しむに尽きる。

 

全ては、自分の成長や幸せのために存在しているんじゃないかな。と思うから。

 

2021年

 

書きたいことは溢れているけど、

ブログに書こうとするとカッコつけたがりな我が出てきてなかなか進まない。

 

なので、今年は久しぶりに手書きで日記をつけてみることにした。

流れるように過ぎていく日々の中、

『書く』というのは、

自分の心を振り返る時間となり

やっぱりすごく良い。

 

自分の感情を、

手のひらに乗せて眺めてみる。

触ってみる。味わってみる。

 

【自分】にベクトル向ける時間を、

できるだけ多く取れる一年にしたいなぁと思う。

 

 

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